―晩婚化の原因を精神面の変化に求める言説もありますよね。いわゆる男子の「草食化」といった捉え方です。
筒井氏 若い人の意識が変わってきているのは、これは間違いないです。結婚しなくてもそれほど非難されないようにはなってきていますから。昔は「結婚しない」ということは、即「人生オワッタ」みたいな感じでした。自分の親の代とか見ていると非常に不思議じゃないですか。「なんでこの男と結婚したんだろ」みたいな、見た目や性格にこだわらない結婚をしていた(笑)。いまでは考えられないですけど。それは「結婚しない」よりは良かったからです。ヤサシクなかろうが、多少クサかろうが、どんな相手だろうが結婚するしかない。でも、いまは他の選択肢がありますから。そうした価値観の変化はあると思います。
また、「カップル文化」がないというのは日本ではよく言われていますよね。欧米では「カップル単位」じゃないと人間扱いされないみたいな部分があります。たとえば、何が何でもパートナーを連れてパーティーにいかなければいけないといった場面です。ああいうプレッシャーはないですよね、日本では。そういう意味では「草食化」しやすい下地はあるのかもしれません。
"晩婚化の原因は”いい男”が減ったから―筒井淳也氏の語る日本人が結婚しなくなった理由 / SYNODOS×BLOGOS http://blogos.com/article/33991/?axis=&p=1
欧米の制度設計と日本の制度設計を比較するとき、支出額の観点のみならず、「医学モデル」と「社会モデル」という、「概念の違い」を押さえておく必要があると思います。日本の障害施策および手帳制度は、いまだに前者の「医学モデル」に偏重しているのが、最大の特徴です。
フランスとドイツも手帳を発行する制度を採用していますが、「社会モデル」へのパラダイムシフトを経ている点において、実情は大きく異なります。1981年「国際障害者年」から、国連を中心とした国際社会で障害者政策が広く議論されるようになりました。これは、障害当事者の運動の世界的な盛り上がりをうけた動きです。欧米諸国はこの間に、「社会モデル」の導入と、福祉施策の策定にいち早く動きました。
SYNODOSで先日、竹端寛さん(山梨学院大学准教授)が論考を書いてくれました。やや長く、福祉と普段あまりかかわりのない方とっては「読みにくいかもしれません、先生」とコメントを思わず送ってしまいましたが。あっ、竹端先生すみません。
でも、「社会モデル」はもう国際社会の議論で主流となって30年近くが経過している。そろそろ日本でも定着させないと、非常にまずいことになります。なにせ2025年には65歳以上の高齢者人口は3500万人を超え、2035年には、3人に1人が65歳以上になると予測されています。
移動、モビリティの確保の問題ひとつとっても、きわめて深刻です。物理的障壁の解消によって何とかなるものは、どんどん何とかしていかないと、このままでは「外に出られない」人口が急増するのではないでしょうか。街中に買い物にも行けないのでは、ただでさえ不況と言われ久しいのに、経済的にも大いなる損失をもたらすのは確実でしょう。 「社会モデル」について説明するときは色んな言い方ができるのですが、一番単純化した例として、車いすユーザーの例をよく出します。
「医学モデル」的な考え方では、車いすユーザーの足が動かないことが「障害」だと捉え、本人にその起因と責任があるとします。「社会モデル」的に考えると、段差があることによって、アクセスができないことが「障害」となります。つまり、社会の道路やビルや公共交通機関に段差があって外に出られないのだったら、その段差をとっぱらって外に出られるようにしよう、ということです。
"命の重さを”印象論”で語ってはならない~大野更紗氏インタビュー回答編~
「発達障害」の当事者たちが活動を広げ、社会の関心事として認知され始めたからといって、ある特定の医学的・身体的な機能障害を有する人々の人口比率が増えてきたというわけでは必ずしもないのだろう。医療の専門家でないわたしにはあまり立ち入った判断はしかねるのだが、ただ「発達障害」に関しては、むしろ社会的な要因の方が大きく関わっているように思われる。
おそらく、同様のパーソナリティの「偏り」を持った人々は昔からいたはずであるが、その「偏り」が「障害」として認定されていなかった(認定される必要性がなかった)と考える方がよいのだろう。ある時代におけるある社会のなかで、「普通」「標準的」と言われるモデルケースから逸れるパーソナリティを有した人物を、社会がどれだけ受け止められるかという「社会の許容力」によって、「障害」の境界線も決定されるということである。(ちなみに学校カウンセラーとして豊かな経験を持つ岩宮恵子は、従来のような悩み葛藤しつつ成長する「内面」「主体」というイメージでは捉えられない(理解し切れない)意識のありようが、「発達障害」と括られている可能性について指摘していて大変興味深い。『フツーの子の思春期――心理療法の現場から』岩波書店、2009年、191頁)。
かつては「個性的」「ユニーク」「変わり者」と言われながらも、周囲の助けを借りながら、それなりに共同体に打ち溶けながらやっていけたようなパーソナリティの在り方が、現在の閉塞的な社会状況のなかでは居場所がなくなり、医療や福祉の特別なケアを必要とするようになったと考えた方がよいのかもしれない。
"生き延びるための「障害」――「できないこと」を許さない社会 荒井裕樹
たとえばマンションの管理人の仕事は、定年退職後の人向けの再就職先ポジションとして定着していますが、「同じ給与でいいです」といって“30代で定職経験のない人”が応募してきても、60代の再就職派には勝てないのではないでしょうか?
日本は、「長い間我慢してきた人」をとても高く評価します。現時点での能力ややる気や適性の前に、「過去にどうであったか」が重視されるのです。
たかだか数年間、生き方や仕事について悩んだり迷ったりしてきた人が、一生罰を受けなくてはならないほどの罪を犯したとは思えません。それでも彼らにはチャンスが与えられなくなってしまうのです。
"Chikirinの日記〜2005-04-24 「若年者の失業率」